渋澤栄一いわく「交通の便を欠けば田園都市はほとんど無用の長物」

2024年10月2日 / 主席研究員 山内 智孝 

 2024年7月3日、渋澤栄一の肖像付き日本銀行券新一万円札が発行された。渋澤栄一は幕末から明治・大正・昭和初期を生き抜いた日本財界の祖であり、2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」放映以来、メディアでの紹介機会も多くなった。東急グループの対外資料では従来から五島慶太と並んで創業の祖として紹介されてきた。五島慶太の活躍は東急100年史の前半に足跡が多々残るが、渋澤栄一の関与は創業の発起時に限られている。では「渋澤は東急に何を遺したのか?」本稿を以て少々考察を試みたい。

 東急は、公共交通整備と土地開発をルーツとし、高質で洗練された生活価値の提供を旨として成長を続けてきた複合的な企業グループである。創業期には多くの先達が活躍したが、キーパーソンは、①渋澤栄一 ②小林一三 ③五島慶太の3人で、各キャリアと東急への影響はおよそ次の通り。

①渋澤栄一(以下渋澤 1840-1931)
 埼玉県の農家の子→江戸で攘夷志士→将軍家の家臣→欧州視察に随行→明治政府の大蔵官僚→起業家→財界主導者→首都の人口増による環境悪化を懸念、郊外都市開発のコンセプト「田園都市」を主唱して、東急のルーツとなる会社=田園都市(株)を発起

②小林一三(以下小林 1873-1957)
 山梨県の商家の子→東京で慶応の文学青年→三井銀行の行員→大阪で鉄道会社計画の清算人→同社を引き取り鉄道敷設&宅地開発の循環再投資モデルを考案して企業再生→同社が阪急に成長→成功ノウハウを田園都市(株)の創業時に伝授

③五島慶太(以下五島 1882-1959)
 長野県の農家の息子→教員→鉄道省の官僚→計画中の東京横浜電鉄の役員に就くも創業に苦戦→小林に推挙されて田園都市(株)傘下の目黒蒲田電鉄の役員を兼務、やがてこの3社を統合した東急の急拡大を牽引

 3人の専門性から東急創業時の役回りを考えると、①渋澤=起業の専門家、②小林=資金回転の専門家、③五島=鉄道の専門家となろう。渋澤は日本初の銀行や損保、製紙やホテルなどの起業と同様、新たに郊外都市の開発会社を発起した役回りだ。しかしここで、渋澤がそもそも「鉄道の専門家」の草分けであったことに改めて注目してみたい。

 渋澤は、明治政府発足当初の大蔵省勤務時に、幕末の欧州見聞体験に基づいて鉄道事業の有効性を各方面に説く立場にあった。「日本初の鉄道事業である東京横浜間の官設鉄道の敷設に(自分は)大きく貢献した」と晩年の回顧録にある。苦労話として「京浜間に初めて鉄道が敷設せられた当時には、政府部内にも反対があり、ことに民間の反対はすこぶる盛んで、無知な地主や、鉄道の敷設によって直接の影響を受ける旧街道の旅籠屋や馬車曳き、人力車夫などの連中は、われわれの死活問題であるというので最も猛烈に反対運動をなし、果てには無法千万にも試験的に架けた京浜間の電線を切断するやら、電柱を倒すやら、おまけに工事を妨害するために監督の役人を襲うというような暴動騒ぎまで演じたほどである」と渋澤は記す。しかしこれらの困難と闘いつつ鉄道工事は着々と進められ、1872年9月12日に明治天皇をお迎えして開通式が行われた。

 次に渋澤は大蔵省退省後の1875年、その鉄道事業の知見を見込まれて「東京鉄道会社」という民間鉄道プロジェクトを託された。この会社は英国留学を経験した元徳島藩主の蜂須賀茂韶(もちあき)が起案して複数の華族(元大名家)が出資したもので、東京~青森間、東京~福岡間、東京~宇都宮間などが順次検討された。しかし渋澤を指導していた井上馨(かおる)から「新たに鉄道を敷設することはすこぶる結構であるけれども、利益を挙げるまでには相当の年限を要するであろうし、それよりは現在運転している東京横浜間の官設鉄道を払い下げて経営し、漸次線路を延長するようにした方が宜しくはないか」と忠告された。そこで渋澤は、新線の敷設計画を棚上げして払い下げプロジェクトに変更した。ところが同時期に明治政府が華族の減収につながる政策を推進した結果、華族諸家は資金不安から投資意欲が減退し、渋澤からの「東京横浜の鉄道は、現在でも政府において利益をあげているのだから、民業に移して一層経営を合理的にすれば、より以上の利益をあげる事ができ、すこぶる有望な事業である」との説得にもかかわらず、プロジェクト中止が決定されてしまった。「せっかく初声(うぶごえ)を挙げた日本最初の私設鉄道計画も、煙の様に消えてしまったのである」と渋澤は残念がった。

 しかし渋澤は再度、鉄道事業の発起人となる。これが1881年発足の「日本鉄道会社」で、東京から青森に鉄道を敷設する目的で創立、1906年にこの鉄道が国有となるまで経営に関係していた。このころには時代が進んで、東京横浜開通時ほどの騒ぎにはならなかったものの「沿線住民の反対はいたる所におこり、土地買収についてはすこぶる頭脳を悩ましたものである。停車場の位置等についても会社の予定した土地に反対が起こったり、猛烈な反対のために予定線路を変更しなければならぬような困難にも遭遇し、会社当局の苦心は一通りでなかったが、幸いに事業は着々として進行し、貨客運輸事業のほかに車輛の製造工場を経営し、その後漸次事業を拡張して日本第一の鉄道会社となるに到った」。この会社はやがて国鉄となり、路線は今日のJR東日本の東北本線・高崎線・常磐線に継承されている。渋澤はその後、北海道炭鉱鉄道、九州鉄道、筑豊鉄道、日光鉄道等その他国内における20余りの民営鉄道会社の創立並びに経営に関係している。こうした明治期の経験を経た渋澤は、当然に鉄道事業発足の難しさを人一倍理解していたはずだ。それだけに晩年見届けた郊外都市開発と鉄道事業を融合させた田園都市の完成は、相当に感慨深いものだったのではないだろうか。次のエピソードがそれを物語っている。

 1927年6月30日、渋澤は分譲開始後4年が経過した“ニュータウン”「田園調布」を訪問、町内の直営遊園地「多摩川園」(注1)での歓迎祝賀会に臨み、小林や五島を含む田園都市(株)の関係者らを前に次のような祝辞を述べた。
 「(前略)会社はもっぱら田園都市に必要なる諸般の施設、すなわち道路上下水道より公園学校等の整備に力を注げり、なかんずく最もその意を用いたるは交通機関にあり、けだし交通の便を欠けば田園都市はほとんど無用の長物となりおわるべければなり、老生は単に首唱者たるにとどまりて もとより自ら経営の任に当たれるにあらざれば、今つまびらかにその業績を列挙するを得ざれども、現在本社の姉妹会社ともいうべき目黒蒲田電鉄会社によりて目黒蒲田間に電車を運転し、もって田園都市を東京市の中心とを連絡し、また東京横浜電鉄会社によりて京浜の交通を一層便ならしめつつあるの一事をもってその異常なる発達を証するに余りあるべし。(後略)」(旧字の一部を仮名に置換え)
 祝辞は街のインフラ完成全体を讃えるものだが、この通り渋澤は目蒲線(=現在の目黒線+多摩川線)と東横線の鉄道敷設状況を特筆し、大絶賛しているのである。田園都市(株)は1918年に創業して以来、この祝賀会までの9年間に3つの大規模ニュータウン(洗足、田園調布、大岡山)と2つの鉄道新線を一気に完成させて「異常なる発達」に至った。同時期に大流行して死者多数を出したスペイン風邪(1918-1920)や、多くの都心部建物を焼失させた関東大震災(1923)による郊外都市転居人気が追い風となったが、何より小林の阪急式ノウハウの提供と、五島の陣頭推進力の貢献は絶大であっただろう。祝辞に伴う関係者の記念撮影では、前列中央に座った渋澤(当時87歳)の真後ろに、小林(当時54歳)と五島(当時45歳)が並んで胸を張り、誇らしげな表情で写真におさまっている。

 渋澤は祝辞の締めくくりに次の自作漢詩を添えた。
「賀田園都市會社事業発展
 新阡先喜映朝光 四望山川引興長 商不二価耕譲畔 果然義利両全郷」

 漢籍に知見ある同僚(注2)によれば、この詩はおよそ次の大意とのことである。
「田園都市会社の事業発展を祝う
 新しい道が朝の光を浴びて輝いている
 四方を眺めれば、美しい山や川に囲まれ興味が尽きない
 会社は誠実に事業を行い、住民は大欲を持たず、平和に暮らしている
 この地は思っていた通り、義と利を両立させる理想郷である」

 なるほど、新しいビジネスモデルによって誕生した“ニュータウン”「田園調布」の、健康的で緑あふれる光景が目に浮かぶようではないか。併せて次の戒めも説いている。

 「諸賢相戒めて安逸(あんいつ)に流れず、驕泰(きょうたい=おごりたかぶること)に陥らず、義利両(ふたつ)ながら全くして長(とこ)しへに模範的住宅地たらしむるに務められんことを。」
つまり「関係諸君は自らを戒めて、今回の大成功におごることなく、今後も義と利を両立させて、この田園都市が模範的住宅地となり続けるよう、末長く努力していただきたい」との意である。この「義」は社会的大義、「利」は民間事業としての利潤追求と理解できよう。

 渋澤が「交通の便を欠けば田園都市はほとんど無用の長物」と指摘した通り、街づくりにおいては公共交通の整備がカギである。初期から公共交通インフラがしっかり作り込まれた街ほど豊かに発達することは、世界の都市開発史において数多く証明されている。近年の都市計画学研究では、この開発理念または方法論をTOD(Transit-Oriented Development公共交通指向型開発)(注3)と呼んで注目している。東急は創業以来100年をかけて、このTODに民間ビジネスとして正面から取り組み、渋澤の言う「義」と「利」を両立させてきたのである。

 以上を踏まえて、冒頭に提示した「渋澤は東急に何を遺したのか?」を、「東急は渋澤のどのような志(こころざし)を継承してきたのか?」という観点で読み解けば、不動産事業においては「世俗の安逸に流されず、真に社会のためになる街づくりをしよう」、鉄道やバスなど交通事業では「優れた街づくりにおいては優れた公共交通こそが絶対不可欠なのである」となろう。青臭い物言いに聞こえるかもしれないが、こうした社会的大義の内なる志こそが、東急が渋澤から継承してきたDNA(=遺伝子)なのではないか。思えば東急社内の政策討議等において、渋澤のフィロソフィー(=理念・哲学)に通じる思考アプローチには日常的に多く接していることに気づく。例えば「都市生活における真の豊かさとは何か」「住民のウェルビーイングの尺度は何か」「この事業を沿線価値の向上に役立てたいが」などなど…。先達のDNAとはこのような企業文化の形で継承されて、時折大事な局面で表出してくるものではないだろうか。

 以上の追跡や思索を経て、渋澤の名著「論語と算盤」に通じる「義と利を両立させる理想郷づくり」の趣意が、この先の東急グループ各事業においても丁寧に継承されていくよう引き続き共有の場を拡げたく、思いを強くした次第である。
(文中敬称略)

参考資料:
・「青淵回顧録」渋澤栄一述 青淵回顧録刊行会 1927年刊
・「論語と算盤」渋澤栄一著 角川ソフィア文庫 2008年刊
・「逸翁自叙伝」小林一三著 阪急電鉄株式会社 1979年再刊
・「小林一三翁の追想」小林一三翁追想録編纂委員会 1961年刊
・「田園調布の大恩人 小林一三翁のこと」矢野一郎述 矢野恒太記念会 1986年刊
・「東京横濵電鐡沿革史」東京急行電鉄株式会社 1943年刊
・「事業をいかす人」五島慶太著 有紀書房 1958年刊
・「五島慶太の追想」五島慶太伝記並びに追想録編集委員会 1960年刊
・「東急100年史」東急株式会社社長室広報グループ 2023年刊
・「統合報告書2023」東急株式会社経営企画室 2023年刊
・「TODによるサステナブルな田園都市」株式会社東急総合研究所監修
  太田雅文他編 近代科学社 2024年刊 他
注1「多摩川園」→1979年閉園、現在は「大田区立田園調布せせらぎ公園」
  (東京都大田区田園調布1丁目53-12)他
注2 株式会社東急総合研究所 企画部 汪永香副主任研究員 
注3 TOD(Transit-Oriented Development公共交通指向型開発)→米国の都市デザイナー、ピーター・カルソープ(Peter Calthorpe、1949年-)が
  「The Next American Metropolis: Ecology, Community, and the American Dream」1993年において提唱。