渋谷を伝統芸能の発信拠点に
渋谷には東急系の主要な舞台施設が集まっている。Bunkamuraにはクラシック音楽用のオーチャードホール、現代劇用のシアターコクーン、ヒカリエにはミュージカル用の東急シアターオーブ、多目的のヒカリエホール・・・。中でもユニークなのはセルリアンタワー能楽堂。超高層ホテルの地下に本格的な能舞台と客席が和モダンデザインで端然と収まっている様は美しい。
この春、ここで若手能楽師の連続公演「渋谷能」が始まった。(株)東急文化村主催で2019年3月から12月まで全7回。「能」を気軽に楽しむことを狙った斬新な企画で各メディアの注目も集めている。そのポイントは次の通り。①5つの流儀の若い出演者が集結(前例が無いとのこと)、②事前解説会や出演者との懇親会を開催、③クラウド・ファンディングで不足資金を公募(これも能では初)、④現代と共通するテーマの演目を選択、など。
3月1日の第1回目終演後に開催された、観客と演者との懇親会は、実に和やかで盛況だった。「能はなぜ眠くなってしまうのか?」という女性観客からのストレートな問いに対し、若手演者は「眠くなるのは当然なのです。能はエンタテインメント(楽しませる)系の芸能ではなく、アンビエント(環境音楽)系だからです。(環境音楽家の)ブライアン・イーノ作品に通じています。だから能はストレス社会に生きる現代人にこそ必要な癒しの芸能なのです。世界に注目されるこの渋谷から我々若手が発信していくことで、もっと能の魅力を広めていきたいです。」と丁寧に解説されていた。なるほど、眠りを誘う副交感神経に作用するのだろうか。能は武士の荒ぶる気持ちを静めるために洗練されていった芸能ゆえ、禅宗的な茶道にも通ずると聞く。貴族の宮廷生活を彩った「雅楽」や、大衆の気を晴らした「歌舞伎」「文楽」とはそもそも目的や方法論が異なるのだ、と理解した。難解な「能」の世界も、若い目線の交流からは新しい境地が開けるようで、多様な価値観が混在する渋谷ならではの彩りある空気感も印象深かった。先の展開が楽しみである。
ところで、渋谷は案外と伝統芸能の上演と縁が深く、「能」のほかに「歌舞伎」も健闘してきた。現在の東急百貨店西館9階にあった多目的劇場「東横ホール」(1985年閉場)では昭和期に歌舞伎公演が多数行われており、人間国宝となった坂東玉三郎丈もここでデビューしている。平成に入ってからはシアターコクーンにて故中村勘三郎丈が「コクーン歌舞伎」の好演を重ねた。また近年では松本幸四郎丈が渋谷区文化総合センター大和田にて、平安末期の武士「渋谷金王丸」を題材にした歌舞伎仕立ての舞踊劇を毎年上演、これは渋谷区が主催している。
渋谷駅からは少し離れるが、参拝者数日本一の明治神宮は渋谷区内にあって、こちらでは毎年春秋の例大祭にて「雅楽」「能」「狂言」「邦楽邦舞」「三曲」などが本殿前の仮設ステージで奉納上演されている。特に「雅楽」は平安時代から1000年以上続く超長寿の伝統芸能で、皇室専属楽団である宮内庁楽部の演奏を間近で観賞できる貴重な機会だ。江戸期以来の人形芝居「文楽」もこの3月、明治神宮の一の鳥居前に仮設舞台を組んで紹介イベントを開催、多くのインバウンド客も足を止めていた。
お座敷系の分野では、前述の旧東横ホールで開催されていた「東横落語会」において、柳家小さん、三遊亭圓生、立川談志、古今亭志ん朝(いずれも故人)らの名演が記録に残るが、2013年からヒカリエホールで「伊藤園 presents 東横落語会」として再開、柳亭市馬、立川談春などの実力派師匠を揃えて復活している。お座敷といえば道玄坂上の円山町には少数精鋭の芸者さん(鈴子姐さん他)が残っていて、三味線、小鼓、花柳流の舞を披露しているのも心強い。
さて、東急グループが一翼を担う渋谷駅周辺の再開発はいよいよ佳境を迎えていて、「エンタテイメントシティSHIBUYA」をテーマに次世代型都市へと進化中である。世界で名のある優れた都市は多層構造または多面体的にできていて、歴史文化面の層の厚み、質の高さがその都市の価値に大きく貢献している。パリやニューヨーク然り、京都や金沢然り。東急グループが引き続き渋谷で文化芸術領域を支援していくことは間違いないのであるが、さらに日本の伝統芸能を意識して盛り上げていきたい。100年単位の知恵が集積された伝統芸能は、都市文化として多層・多面の重要な部分を成し、都市間競争を優位に導いてくれる。これまで縁がなかった方も、まずは好奇心を持って接し、歴史や背景を理解し、表現の機微や空気を楽しみ、そして存続戦略を一緒に考えて行動していただけないだろうか。妄想だが「鎌倉時代の源頼朝の渋谷来訪を題材とした能を創作」するとか「渋谷のシネマ系とコラボで文楽人形のアップも楽しめるライブビューイングを世界発信」するとか。「能」に限らず、あらゆる伝統芸能は慢性的に絶滅危惧状態だが、渋谷は情報発信力からも消費文化の多様性からも東アジア有数の都市であり、伝統芸能を応援して存続させる救世主となりうる。渋谷を伝統芸能の発信拠点に誘導すべくご関係諸氏のお知恵を拝借してまいりたい。