ランキングとの付き合い方
私事で恐縮だが、執筆時現在、新居への引っ越しを間近に控えている。3か月ほど前、物件の検討段階で不動産業者を訪れたときのこと。「ここは、住みたい街ランキングで〇位になっている街なんですよ」と担当者からアピールされたのだが、私はそのことにどこか引っ掛かりを覚えた。これから住むことを検討している街が、住みたい街ランキングの上位に位置するということは、喜ぶべきことなのかどうか…(素直でないことは自覚している)。その是非はさておき、ここではランキングについて少し考えてみたい。
私たちが暮らす社会は、ランキングで溢れている。住みたい街、都道府県の魅力度、高額納税者、有名大学への合格者数、ブログのアクセス数、動画の再生回数、結婚式場の人気度、新卒入社の人気企業、好きなアナウンサー、理想の上司等々…枚挙にいとまがない。それぞれのランキングは、見る人の好奇心をかき立てたり、自尊心をくすぐったりするだけでなく、人生の重要な選択にあたっての指針とされる場合もあるだろう。ランキングは、私たちの人生や生活に深く根差していると言えそうだ。なぜ、これほど多くのランキングが作成され、人々はそれに興味を示すのだろうか。
ペーテル・エールディ著『ランキング 私たちはなぜ順位が気になるのか?』によれば、ランキングとは、一群の比較対象(たとえば、個人、大学、映画、国、サッカーチームなど)同士を、何らかの基準(たとえば、人口規模、高さや重さ、年収など)に基づいて、直接お互いに比較することによって順位づけることをいう。つまり、ランキングは一種の比較なのだ。そして「自分と他人とを比較するのは人間の基礎的活動であり、比較をしたりされたりすることから逃れることはできない」と、エールディは指摘する。また、情報に溢れた現代社会において、膨大な情報をいかに把握し理解するかは大きな問題であるが、その点、ランキングは体系的評価に基づいて情報が簡潔に整理されており、把握・理解が容易である。そのため、私たちはよくランキングを好んで読んだり作成したりするのだ。
一方で、ランキングには注意すべき点もある。ランキングを作成するためには、比較に用いた個々の基準を重み付けする必要があるが、この「重み」は主観的に決定される。つまり、ランキングは完全に客観的ではありえないのであり、「ランキングというのは、どの指標を重視し、それらにどう重み付けするかにかんする主観的な意見表明でしかない」(原文ママ)のだ。また、ランキングを作成する側が、比較対象に対する知識や、情報を適切に処理するためのスキルを欠いていたり、自分の利益になるように巧みに状況を変化させ、コントロールし、影響を及ぼしたりすることも多い。ランキングの客観性が人為的に損なわれることもあるのだ。
では、私たちはランキングとどのように付き合っていくべきであろうか。エールディが提案するように、一定の基準に基づくランキングを「慎重に信用する」ことが肝要だろう。世の中に溢れるそれぞれのランキングが、誰によって、どのような基準に基づいて作成されたものなのかを見極めた上で、依存するでも毛嫌いするでもなく、冷静に読んだり利用したりする態度が求められそうだ。
さて、思い返してみれば、引っ越し先を決めるにあたって、私も無意識のうちにランキングを作成していた。対象となったのはいくつかの候補物件であり、基準として用いた要素は、価格、通勤のしやすさ、災害に対する安全性、買い物利便性、実家との距離、日当たり、間取りや面積等々であった。それらの基準について、妻と話し合いながら重み付けを決めて、相互に比較し、総合評価を行ったのだ。そのランキングは、私たちの主観が色濃く反映されたものだったと思うが、自分たちが暮らす家を決めるためのものだから、それで良かったと思っている。新たな暮らしの中でも、数ある選択肢の中から一つを選ぶような場面がいろいろと出てくるだろう。その際に、世の中にあるランキングを時には参考にしながらも、それに依存することなく、自分たち自身の基準に基づいて独自のランキングを作成し選択する姿勢を持っていたいものである。
【参考文献】
ペーテル・エールディ著、高見典和訳『ランキング 私たちはなぜ順位が気になるのか?』(日本評論社、2020年)