「世代」という属性分類について

2024年8月29日 / 主席研究員 岸 泰之

 昨今、さまざまなメディアで、「Z世代」「デジタルネイティブ世代」といったように、「〇〇世代」という言葉を目にしたり、耳にすることが多い。中には、「若者“世代”」「子育て“世代”」といったように、一瞬「?」と首をかしげるような表現も見かける。
 また、ヒトに限らず、例えば車やパソコン(中央演算装置)などの工業製品や農作物など、品種改良を重ねるモノにおいても、その「進化」の過程、足跡を表現する際に「世代」という表現が使用されている。
 このようにヒトであれ、モノであれ、生年・発表(発売)を起点としてその後の成長過程の「時代背景」をまといながら、「世代」は語られている。
 そこで、本コラムではこの「世代」について、生活者(ヒト)に対する商品・サービスのマーケティング(市場最適化、市場創造)の視点から少し論じてみたい。

■同じ属性分類の「世代」と「年齢」「ライフステージ」の違い
 基本的なマーケティングのプロセスでは、狙うべき標的集団(ターゲット)を抽出、設定するために市場の細分化という「分類」を行うことが一般的である。生活者(ヒト)を対象とする「分類」の場合では、概ね「属性」、「行動」、「心理」の3つの“切り口”が用いられると思う。
 「世代」は、その3つの“切り口”の中のうち「属性」にあって、「年齢(年代)」「ライフステージ(未既婚・末子の学齢)」と同じく、「時間(軸)による分類」視点といえる。
 なお、「年齢(年代)」という「分類」では、0歳から始まって10代、20代…70代といったように、同一人物であっても時間経過(加齢)により「属性上の区分」上を移動する。
 「ライフステージ」もまた、概ね「年齢」と連動しながら時間経過(加齢)とともに、ライフイベント(出生、入学・卒業・進学、就職、結婚、出産、子どもの入園・入学、本人の定年退職)をたどりながら「属性上の区分」上を移動する。
 一方、「世代」は「“同時代に生まれ、共通した考え方と感じ方をもつ人々”※1」を意味することから、「年齢(年代)」と同じく生年を起点としながらも、ベルトコンベアー(時間経過)上を流れる荷物(人の群)のごとく、時間経過にかかわらず「属性上の区分」は固定的に推移する。例えば、1947年から1949年に生まれた約800万人の「団塊の世代」は、生を受けてから75年以上経過した現在でも、一般社会ではその名称をもって「属性分類」される。
 このように、同じ「時間(軸)による分類」でありながらも、「年齢」「ライフステージ」と「世代」は本質的に異なる。
 ちなみに、冒頭で触れた「若者“世代”」「子育て“世代”」といった表現は、「時間(軸)による分類」が混在している表現といえる。この例でいえば、正しくは「若者“年代”(あるいは年齢構造を念頭に、若年“層”)」であり、「子育て“ステージ”」ではないか。

■賛否両論がある「世代」論
 ところで、「世代」という「属性分類」の有用性については賛否両論がある。
「世代」論について肯定的な論調をみると、学校に入学する人たちや、企業に就職する人たちの性向を「いまどきの〇〇は…」といったように、大ざっぱに理解する上で簡便である、というものである。あるいはマーケティング活動に関わるプレゼンテーションにおいて、標的集団(ターゲット)の属性を説明する際の“つかみ(連想と理解)”になりえる、というものである。例えば、入社シーズンにみられる「Z世代における人材育成研修」「デジタルネイティブ世代の〇□×△」といった謳い文句などは、まさにそれらを端的に示している。
 一方、「世代」論について否定的な論調をみると、「『十人十色』さらには『一人十色』といわれるように、個人の意識や行動が多様化している中で、複数の生年にわたる人を“同じ塊”でみることに意味があるのか」「同じ時代背景の中で生育したとしても、さまざまな環境を背景による個人差がある」「『世代』がまとう時代背景や経験値とは、何歳くらいまでに形成されるのか不明」といったように、概して「世代」という括り方に疑問が呈されるようだ。中には、「血液型で人のタイプを論じるのと同じく、酒場の談笑レベルの話題」と断じる意見もみられる。
 このように、「世代」(の活用)をめぐる賛否両論があるが、筆者としてはマーケティングにおける市場の細分化の過程で、例えば「ペルソナ※2」という手法にみられるように、標的とする「市場(属性、行動、心理による区分)」を解釈あるいは説明する上で有効な補完材料になると考える。

■「世代」は共感を得るひとつのコミュニケーションツールになる
 今日、コ・オフィスやカフェなどさまざまな場で、さまざまな目的の下、さまざまな「年齢」「世代」「ライフステージ」の人が集まり、交流している。その交流においては、参加者間の共感が最も重要といわれており、その共感の形成はコミュニケーションを通じて、個々人が有する価値観や趣味嗜好、感性など、「互いを知る」ことから始まる。
 例えば、「私は〇〇年生まれ(××世代)でこういう経験をしてきたから、ほぼ同じ世代の貴方(貴女)の考えていることはよく理解できるし、共感できる・・・」という、「互いを知る」ための会話の場面を想像してみてほしい。ここからわかるように、同じ時代背景、同じ時代的体験からなる「世代」という概念は、(酒場談義だとしても)互いを知るためのわかりやすい(“つかみ”となる)「属性分類」であり、コミュニケーションツールといえるのではないか。
 このように異なる「世代」による活発な交流、コミュニケーションによって、「時」を超えた「知の共有・融合」や「知の新しい解釈」がもたらされ、やがてそれらが「世代を超えた」形で新しい価値の創造につながるものと期待している。
 1971年の発売ながら、「世代」を超えて現在の若い「年代」にも歌い継がれる、吉田拓郎の「今日までそして明日から」※3を聴きながら、そんなことを思いめぐらしている。

※1 デジタル大辞泉による。
※2 マーケティングにおける「ペルソナ」とは、属性、行動、心理からなる各種データにもとづいて想定される架空の人物像(パーソナリティ)のことである。この架空の人物像である「ペルソナ」を設定することで、「市場」の違いを具体的に説明でき、または理解できることが期待される。
なお、一見すると「ペルソナ」と「キャラクター」は同義語のようにみえるが、前者が「後天的なもの(社会関係を背景に形成される「人格」)」を指すのに対して、後者は「生得的なもの(生まれながらの「性格」)」を意味するとされる。
※3 「今日までそして明日から」(1971年 吉田拓郎による作詞作曲)は、映画『旅の重さ』(1972年)、映画『恋妻家宮本』(2017年)、さらにはアニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001年)など、「時代」や「世代」を超えて人々に届けられている。

以上