「人にやさしい」企業とは
「お互いに優しく……常に。みんなに愛を。親切に。」※1-今年の9月に病気で亡くなった、アメリカ人俳優による最後のSNSへの投稿です。彼はまだ50代で、今年の夏に撮影が開始されたドラマが配信されるのを楽しみにしていた私は、その死に少なからぬ衝撃を受けました。そして、このメッセージをどのような気持ちで書いたのだろう、優しさとは何だろう、と折に触れ考えています。
持って生れた性分なのだろうと思いますが、無条件に「優しい」と感じる年配の女性を知っています。私鉄の駅から歩いて程なくして現れる地元の青果店のその人には、いつも優しさを感じます。特別に親切な言葉をかけるわけではなく、ただ淡々と丁寧に接客されているだけですが、優しさを感じて、いつも心を打たれます。「優しい」を「デジタル大辞泉」で調べると「他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。」「性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。」とありますが、まさにそうした様子を体現しているのです。
さて、この「優しい」という言葉、人だけでなく企業を表現する際にも使われ、ひらがなを用いた「人にやさしい」、「環境にやさしい」との表現をしばしば目にします。「デジタル大辞泉」には「悪い影響を与えない。」という意味も書かれています。「環境」や「地球」に対して悪い影響を与えないための取り組みは、容易に想像できるかもしれません。では「人にやさしい」とは、どのようなことでしょうか。「人」とは誰で、どのような「やさしさ」が求められているのでしょうか。単なる「心がけ」でしょうか。
「人にやさしい」企業を考えるにあたっての重要なキーワードが「ビジネスと人権」です。日本で「人権」というと、「ひとむかし前までは同和問題」※2、現在でも国際的には国や軍が絡む問題や、企業レベルでいえば職場でのハラスメントや働き方といった個別具体的な問題が取り上げられることが多く、総体としては捉えどころがないイメージがあります。
しかし実のところ「人権」とは「人間が人間らしく尊厳をもって幸せに生きる権利で、全ての人が生まれながらに持つ権利」※3であり、「世界人権宣言」には「生存、自由、身体の安全に対する権利」や「健康と福祉に十分な生活水準を保持する権利」※4などがあげられています。ほかにも多くの条約や宣言などで権利が記されています。国際社会で語られる人権は、英語でhuman rightsと複数形であることからわかるように、具体的な権利の総称です。
「ビジネスと人権」という言葉は、まだ新しい言葉です。2005年の国連人権高等弁務官報告書において「『多国籍企業と関連企業の人権に関する責任』の略語として登場」※5しましたが、現在ではバリューチェーン全体にわたる企業活動とステークホルダーとの関わりで生じる人権課題を包括的にとらえる概念として使われています。
2011年6月に国連人権理事会が「ビジネスと人権に関する指導原則(以下、指導原則)」※6を全会一致で承認しました。背景には、1990年代から顕著になってきた多国籍企業による、委託先の工場における児童労働や、操業地でのコミュニティーの環境破壊があります。2005年に国連事務総長特別代表となったハーバード大学のジョン・ラギー教授は、さまざまなステークホルダーと協議を重ね、2008年に国連人権理事会に「保護、尊重及び救済」枠組みを提出し承認されたのですが、この枠組みを行動に移すために策定されたのが「指導原則」です。
「指導原則」は(1)人権を保護する国家の義務 (2)人権を尊重する企業の責任 (3)救済へのアクセス(被害を受けた人びとが救済を受けられるようにする)の3つの柱から成り立っています。
人権を尊重するために企業(多国籍企業のみならず全ての企業)に求められているのは、人権方針の策定と開示、人権デュー・ディリジェンス(以下、人権DD)の実施、救済メカニズムの構築の3つです。人権DDとは、バリューチェーンに関わる幅広いステークホルダーの人権侵害のリスクを特定し、問題があるようであれば対応策をとり、継続的に追跡調査を行うとともに、外部に情報公開するという一連の取り組みです。この時注意が必要なのは、「人権侵害のリスク」とはステークホルダーが自身の権利を奪われるリスクであって、企業にとってのリスクではないということです(もちろん、それを放置すると訴訟のリスクや、不買運動などの企業リスクにつながります)。
指導原則自体は法的拘束力を有しませんが、国、企業の双方で取り組みが進みつつあります。G7やG20の首脳宣言で言及され、指導原則に基づき奨励された「国別行動計画」※7は日本を含む26か国が作成 しています。欧米では人権DDの義務化が進んでいますし、国内企業も具体的な人権リスクを排除するための行動に出ています。ESGのSの中核的な課題としてとらえ、投資から企業行動を促す動きも活発化しています。
SDGsと人権の保護も、表裏一体の関係にあります。SDGsには人権という言葉は出てきませんが、一つ一つのゴールは複数の具体的な人権と結びついています。SDGsを含む文書である「2030アジェンダ」には「すべての人々の人権を実現する」とも明記されています。SDGsへの貢献をうたう企業にあっては、人権の視点で捉え直すことにより、さらに取り組みが深まるものと思われます。
※1 Willie Garson.(2021年9月5日) BE KIND TO EACH OTHER……ALWAYS. LOVE TO ALL. APRROACH KINDNESS. https://twitter.com/williegarson/status/1434337534474027008
※2 GCNJヒューマンライツデューデリジェンス分科会、EY Japan「ビジネスと人権 日本企業の挑戦」(2016) https://www.ungcjn.org/activities/topics/detail.php?id=185
※3 法務省人権擁護局「今企業に求められる『ビジネスと人権に関する調査研究』報告書 『ビジネスと人権』への対応 詳細版」(2021/03) https://www.moj.go.jp/content/001346120.pdf
※4「国際人権章典」国際連合広報センターhttps://www.unic.or.jp/activities/humanrights/document/bill_of_rights/
※5 菅原絵美「『ビジネスと人権』:国連による規範形成に焦点をあてて」国際法学会(2019/03) https://jsil.jp/archives/expert/2019-5
※6「ビジネスと人権に関する指導原則:国際連合『保護、尊重及び救済』枠組実施のために(A/HRC/17/31)」国連(2011/06)
https://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/resolutions_reports/hr_council/ga_regular_session/3404/
※7 https://www.ohchr.org/en/issues/business/pages/nationalactionplans.aspx(2021/11/20時点)