博士号の価値と未来 ~不確実な時代に求められる博士人材~
1.はじめに
数日前、私は同僚と電車内で立ち話をしていた。その中で、同僚が「博士号がほしい」と突然言い出した。理由を尋ねると、「先行きが不安で、これからの時代を生き抜くために博士号を取得したい」とのことだった。その場ではそれ以上の会話にはならなかったが、後になって私は博士号の意義について気になり、少し調べてみることにした。本稿では、博士号取得者ら(以下、博士人材)が果たす社会的役割、日本の現状と課題、そして今後の展望について考察する。
2.博士人材の社会的役割
博士号を取得することは、単に深い専門知識を得るだけではない。文部科学省によると博士人材は課題発見能力や論理的思考力、問題解決スキルなどの「汎用的能力」を持ち、それらを活用することで社会全体の成長を促進する存在であるとされている。また、科学技術の進歩や産業の発展、さらには国際的なネットワークの構築においても、博士人材の果たすべき役割は拡大し続けている。
ミュンヘン工科大学の井上茂義教授によると、欧米諸国では博士人材の活躍の場は研究分野にとどまらない。例えば、ドイツでは2019年時点で博士号取得者の69%が企業で働いており、大学や研究所で働く人は14%にすぎない。さらに、ドイツでは博士号取得者の平均年収が他の学歴と比べて約200万円高く、また、米国やドイツでは経営者の約7割が大学院卒であると指摘されている。
このような欧米諸国の事例を考えると、日本において博士人材が研究分野以外で活躍できる環境がどの程度整っているのか、あらためて考えさせられる。
3.日本における博士人材の現状と課題
欧米をはじめとするグローバルな社会では、博士人材は研究分野によらず、企業のトップなど様々な分野でリーダーとして活躍している。一方、日本では、博士人材がアカデミアを離れて多様な分野で活躍する事例は少数派にとどまる。文部科学省によると、博士号取得者数が他の先進国と比べて相対的に少なく、日本の博士号取得者数は2008年以降減少傾向にあり、2020年度の人口100万人当たりの博士号取得者は123人であった。一方、米国は2019年時点で285人、ドイツは2021年時点で338人と、日本は主要国と比較して大きく遅れをとっている(下図)。
図 諸外国との比較
(出典)文部科学省「博士人材活躍プラン~博士をとろう~」(2024年3月26日)
この現状を受けて、文部科学省は博士人材の社会における活躍を促進するため、産業界との連携強化を打ち出した。その方針のもと、2024年3月に「博士人材活躍プラン~博士をとろう~」を発表。本プランでは、2040年までに人口100万人当たりの博士号取得者数を2020年度比で3倍に増やし、世界トップクラスに引き上げる大きな目標を掲げた。このプランでは「産業界との連携」を軸とし、博士人材が企業などで活躍できる基盤の整備が重要な課題として位置づけられた。特に、企業と大学が連携し、博士課程の学生に必要なスキルを提供することや、企業側が博士号取得者の価値を認識し、積極的に採用することが求められている。そして、経団連と連携して文部科学大臣として初めて約1300の経済団体・業界団体等の長に「博士人材の活躍促進に向けた企業の協力等に関するお願い」が出された。
これらのことから産業界との協力強化により、博士人材が増え、多様な分野で活躍できる環境を整備することが、日本の競争力向上につながると考えられる。
4.今後の展望
日本における博士人材の活躍の場を拡大するためには、産官学が一体となって取り組むことが不可欠である。政府の政策はもちろん、企業の協力や社会全体での博士人材育成・支援体制の強化が求められる。
現代はVUCA(不確実・不安定・複雑・曖昧)時代といわれ、大地震や風水害、気候変動、インフレ、サイバーテロ、人工知能(AI)の進展など、社会が直面する課題は多岐にわたる。このような環境変化に対し、柔軟に対応できる博士人材の価値はますます高まると考えられる。
企業においても、博士人材を適正に評価し、活躍できる環境を整えることで、事業成長を促進しながらリスクマネジメントの強化にもつなげることができる。世界最大規模の事業継続マネジメント(BCM)・レジリエンスに関する教育機関であるDRI Internationalによると、レジリエンス戦略の中核には、予測不能なリスクに対処するための高度な分析能力や問題解決スキルが不可欠とされている。博士人材の持つ専門知識や論理的思考力は、企業のBCMやリスクマネジメントを支える重要な要素となる。これは、企業のレジリエンス戦略の一環としても捉えられるだろう。
また、博士人材の活躍の場を広げるためには、大学における実践的な教育プログラムの整備も重要である。筑波大学の「リスク・レジリエンス工学学位プログラム」では、現代社会が直面する多様なリスクに対応するための高度な専門知識と実践力を持つ人材の育成が進められている。同大学を含む11の企業・研究機関・大学が協力して設立した「レジリエンス研究教育推進コンソーシアム(R2EC)」は、レジリエンス分野の研究と教育の中核拠点としての役割を果たしている。こうした取り組みは、博士人材の育成だけでなく、産業界のレジリエンス戦略の強化にも貢献すると考えられる。
このように、博士人材の社会的価値を考えたとき、同僚の言葉は決して突飛なものではなく、むしろ時代の変化を反映したものなのかもしれない。
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参考文献
1. DRI International. (2025). Disaster Recovery Institute International. https://drii.org/
2. 井上茂義. (2023). 日本における博士号の価値 ~グローバル化と多様性の中で~. 化学と工業, Vol.76-11.
3. 筑波大学大学院. (2025). リスク・レジリエンス工学学位プログラム. 筑波大学. https://www.risk.tsukuba.ac.jp/
4. 盛山正仁. (2024). 博士人材の活躍促進に向けて. 月刊経団連, 8月号.
5. 文部科学省. (2024). 博士人材活躍プラン~博士をとろう~. 文部科学省.
6. レジリエンス研究教育推進コンソーシアム. (2025). 世の中を、リスクで診る。レジリエンスで、未来を看る。. https://r2ec.jp/